夜への長い旅路を見ました(感想)
6月21日に「夜への長い旅路」を観てきました。
私はこれまで何となく演劇というものを敬遠していて観劇の経験がなく、今回も集中して楽しめるか不安だったのですが、始まったら本当に没頭して見入ってしまいました。
やはり大竹しのぶさんの存在感は凄かったです。ラストの語りはまさに少女そのものだったところから感情が削ぎ落とされていって、それが悲しくも恐ろしくもあり……。その直後、カーテンコールで衣装を託し上げながら走ってくる天真爛漫なお姿を見ると、そちらが本当の大竹さんなのかなとも思いました。役者さんてすごいですね。
あと話し方の独特の抑揚というか息継ぎが気になったんですけど、あれはリウマチに冒されていて挙動が安定していないことを表していたんですよね? 観劇したことがないので演技のスタンダードが分からず、これは演劇っぽいしゃべりなのかな?とちょっと悩みました。
杉野遥亮さんは初舞台だったそうですが、観劇初心者の私が言うことではないんですが、まったくハラハラした気持ちになることなく安心して観ておりました。
池田成志さんのジェイムズは、戯曲を読んだ印象よりもコミカルに感じたんですが、それゆえにメアリーが薬をやっていることが確定的になったときの倦んだ演技が一層際立っていたと思います。
大倉くんのジェイミーは、そもそも戯曲を読んだ際に「この擦れた感じで酔っ払った大倉くんが見たいなあ!」と思って夜の長い旅路を観ようと決めたので、本当に理想どおりでやったー!となりました。
舞台を見て感じたこと
私はユージン・オニールの戯曲を読んでから観劇したんですが、舞台を見ることによって、メアリー、ジェイムズ、ジェイミーそれぞれとエドマンドが1対1で話すシーンが、まるで告解のようだなと感じました。戯曲を読んだときには特に気にしなかったんです。
観劇後、パンフレットで演出家のフィリップ・ブリーン氏が「精神療法というのは1対1で行われるのだ」と語っているのを読んで、やっぱり強調したいのはここだったのか!とすごく感動しましたね。
ユージン自身が病気を患い、三番目の妻カーロッタの献身によって、晩年に漸く家族と向き合うことができたのがこの長い夜の旅路という戯曲であることは文献をたどれば知れるけれど、それを言葉による説明ではなく視覚などを通して観客に伝えられるというのは、演劇って、演出ってすごーい!と観劇初心者は思いました。
(杉野くんが無垢なイメージだからか?)私は告解だと感じたけれど、ある出来事について話しながら自分自身と深く向き合うというのはまさにブリーン氏の言うとおりカウンセリングですね。
そして劇中ではエドマンドに話すことがメアリー、ジェイムズ、ジェイミーにとってのカウンセリングになってるのですが、この戯曲を書くこと自体が母、父、兄と向き合い思い出を語るユージン自身のカウンセリングであるというメタな構造なんですね〜おもしろい。
ただ気になったのは、それぞれがエドマンドと会話した後、その次に現れる人が「あいつの言うことは信じるな」と前の人の話したことを否定するんですよね。そう考えると、ユージンに「この戯曲の内容すべてを真実だと思うなよ」と言われてるような気がしてきます。劇中ではエドマンドが母父兄との会話を通して心を通わせますけど、少なくとも1912年当時のユージンはそのようには受け入れられなかったということかもしれません。
旅立てる者/旅立てない者
舞台の宣伝文句として「家族の愛の物語」と言った言葉がよく使われていたし、大倉くんも家族にフォーカスしていろいろ話されていましたが、個々にそれほどの執着もなく普通に仲の良い平凡な家庭に育った者にとって、いまいちその点でハマることはできませんでした。エディプスコンプレックスも、理解はしても、ピンとはこない。
自分が一番惹かれたのは、才能に選ばれる者・選ばれない者の二分という点でした。
そして、私に限らず、おそらく観客の大多数は愛にも夢にも選ばれないジェイミーに自分を重ね合わせることと思います。
エドマンドはストーリーテラー的存在だしメアリーは薬で飛んでるのでなかなか共感は難しいため、必然的に父兄の二択なんだけど、夢より安寧を選んだケチでガサツなジェイムズに「あれは私のことだ」と自分を重ね合わせられるほど達観した人はなかなかいないと思うので、そういう意味で大倉くんは美味しい役をもらったな〜と思いました。
ジェイミーは両親(母)に弟よりも愛されていないことにコンプレックスを抱いていたけれど、それだけじゃなくて才能を持っていなかったこともコンプレックスだったと思うんですよね。
もしユージンの兄であるジェイミーが母の愛だけを欲していたら、ユージンが家を出て、父が亡くなった後、母を独占できたことに満足したのでは? しかし、ジェイミーは母の死後、棺桶とともに泥酔状態でユージンの元へやって来た。それは全てを押しつけて出て行った弟への当てつけじゃないかと思うんです。
そもそもシェイクスピア(でしたか?)の台詞を諳んじていたり、酔っ払ってデカダンスな詩をよんだりして、結構芸術が好きなのではないかと。あるいは何でもいいから才能が欲しかったのではないか。
「俺を捨てろ、だが俺を忘れるな」てまさに山月記の李朝ですよね。虎の咆哮のごとき大倉ジェイミーの叫びは本当にグッときました。
才能はここではないどこかに行けるパスポートなんだと思います。
とはいえ、才能だけが出て行く手立てじゃない。芝居にもっと真剣に取り組めば、あるいは全て捨てて身一つで飛び出す覚悟があれば、違う道は開けるかもしれない。
でもジェイミーは、父親にあーだこーだ言われながらも役と酒代をもらえる立場から逸しようとはしません。それは当たり役に満足して役者としての幅を広げなかったジェイムズの姿とも重なります。
退屈や不自由は別の角度から見れば安心、安寧であり、その陰には怠惰がひっそりと寄り添っているのではないでしょうか。
その点でポスターは秀逸でしたね! どこにも行けないジェイムズとジェイミーの背後は暗く影が強調され、どこかに行ける(メアリーは薬による忘我で、エドマンドはこの時点では結核による死ですが……)エドマンドとメアリーには光が差しているという。
ストーリーの中に出てくるジェイムズが投資目的に買う土地(=その場に根付く)に対して、エドマンドが心を奪われる海(=流動的)というのも示唆的でしたね。
では、旅立てる者は幸福なのか?
メアリーが薬によって身体的、精神的な苦痛から逃れ、幸せだった過去へとトリップしてしまうことを、私は情緒的には悪いこと、止めるべきことだと言い切ることができません。しかし、それが幸福なことだともやはり言えないです。
エドマンド≒ユージンもです。ユージンは結核の療養中に戯曲を書き始めて、ハーバード大で劇作を学び、デビュー作が評価されたことでニューヨークに進出します。その後の作品も評価され、ピューリツァー賞、晩年にはノーベル賞も受賞します。
華々しい人生に見えますが、母はモルヒネ中毒で、父・兄はアルコール中毒で早くに亡くなっているわけです(自身もアル中)。さらに、三度の結婚をしていますが、一番目の奥さんとの子供である長男はヘロイン中毒になり自殺、二番目の奥さんとの子供である長女のことは彼女が18歳の時に54歳のチャリー・チャップリン(!)と結婚したことで勘当していて、なんかもうめちゃくちゃだな! 英語ウィキには三番目の奥さんカーロッタも何らかの中毒になってて、離婚はしなかったけど破綻しそうになったみたいに書かれていておいおい〜になりました。
夜への長い旅路の中では、落ち着く場所である家を持てなかったことについてメアリーがジェイムズを詰るシーンが度々出てきますが、ユージンもまた安寧の場所である家庭をつくれなかった、留まることができなかった人なのだと思います。
どこかへ旅立つには今を切り捨てなければならない。では、切り捨てられた今はどうなるのか? 少女時代にかえっていってしまったメアリーを見つめるジェイムズ、ジェイミー、エドマンドの絶望的な表情が思い出されます。
切り捨てたほうだって、素面ならばそれですっきりしたとはならないことは、ユージンが戯曲の中で何度も家族を彷彿させるテーマを描いてきたこと、その一方で病に冒された晩年になるまで家族を直視することができなったことからも分かります。
ユージンは1953年にボストンのシェラトンホテルで亡くなります。ウィキペディアに最期の言葉が載っていました。
"I knew it. I knew it. Born in a hotel room, and God damn it, died in a hotel room."
ホテルの一室で生まれて、ホテルの一室で死ぬ。
その言葉から、自らの意思で旅を続けていたと思っていた人生も、大きな波に飲み込まれ、押し流されていただけのものかもしれないという諦念を感じます。その波が呪われた血だというのならば、夜への長い旅路はやはり家族の物語なのでしょう。
暗い終わりになってしまったな。
だからといって、この劇を観て絶望的な気持ちになったわけではありません。私は「ではどう生きるか?」という問いを投げ掛けてくれる作品に出会えたとき、とてもうれしく感じます。なので、初めての観劇でこの舞台を観られたことは幸運です。これからも気になる演劇があったら観てみようという気持ちにもなりました。
そして、そんなきっかけをくれた大倉くんにとても感謝しています。